1年日記 2025年

日々のささいな思いや考えをメモしています。

  1. AIで自分の意見を清書して吐かせる。当然の時代感覚。

    そもそも地方の方言話者がこうして標準語的文章を書く行為自体が「矯正コスト」のかかる行為。しかも割と高いコスト。

    さらに、身体感覚をもとにした体験を記録する場合、その豊かな感覚を貧相な記号(言語と呼ばれるもの)に捨象して切り捨てて表現しなければならない(捨象コスト)。なんと貧弱な行為なのだろうか。

    さらに私の場合、認知が非階層型なので、階層型社会に理解しやすい1次元の連なりへと翻訳するコストがかかる。これが最高にきつい「翻訳コスト」がかかる。そのため、

    1. 元の多次元・並列的な感覚のほとんどを無視する
    2. 冗長・長大な文章
    3. 抽象度の高い文章

    のいずれかを選択する必要がある。

    またこの3つの道のどれを選択するか、そのたびに選択コストもかかる。いずれも、元の思考の「立体性」を「平面」に押しつぶす作業といえる。

    社会が設計した「標準的な認知のレール」から外れることによって生じるコストを、なぜ個人が全額負担しなければならないのか? 認知的多様性に対する社会の「隠れた税」 。それがこれらコストの発生源だ。

    障害の社会モデルでは、「障害」は個人の欠陥ではなく、社会の側が多様な心身を想定していないことによって生じると捉える。

    ホワイトフラジリティ(White Fragility)の脆弱さ:この概念を転用するなら、「認知的主流派の脆弱性」 と呼べるかもしれない。

    階層的・線形的思考を「当然」とする人々が、非階層的な思考に直面した時に示す防衛的反応(「わかりにくい」「まとめてくれ」「結論は?」)——その脆弱性こそが、問題を個人に押し付け、「翻訳コスト」を一方的に負わせる構造を維持している。

  2. これは私の直感だが、おそらく、ASD、ADHD当事者の苦しみもこれである程度説明がつくと思う。

  3. 次の年:1年日記 2026年

  1. 自分の認知がどのように世界を把握しているか。他人にはなかなか伝わらないんだよね。

    そうした経験から、AIへ思考や感覚といったものを共有することで何か整理やヒントがないだろうかと試行錯誤。

    今回はそうしたチャットの一部を共有してみようかと。

    「抽象とは何か」「対象群の見え方」「自己認知」など、思考の深掘りを展開した履歴。

    [AI-log] オブジェクト指向説明の逆転「ふと思ったけど、」

  2. AIとの対話ログを公開してみたけど、割とデータを用意するのが面倒だった。整形、マークアップ、URI設計などは全部AIに作らせたので楽っちゃ楽だったけど。

  3. 実践フルAIコーディング

    • LLM とは極めていびつな汎用知性です
    • 環境整備で勝負のそれなりが決まります
    • 指示を増やせば、未知は減少しますが、矛盾は増えます。つまり、プロンプトを頑張れば頑張るほど、矛盾を抱えます。矛盾と未知をいい案配でなんとかしなければならない
    • AI コーディングにおいて、コードの品質は、人間による不断の努力と、いくつもノウハウによってのみ実現できる
    実践フルAIコーディング

    めっちゃ共感できる。特に論文をAIで生成してると、「思ったより限界が低い」っていう実感が強くなってくる。

    Claudeはかなり記憶保持と離散的発想プロンプトへの追従が見られるけど、Geminiはそれより限界が低く、特にプロンプトとは関係なく「収束と結論」に向かうので私と相性が良くない。

    ChatGPTはこれらのちょうど中間的で、ユーザーフレンドリーな返答が多いが、ハルシネーションは多めかもしれない。ん-、いや、ハルシネーションというより思い込みが強い、と言ったほうがいいかもしれない。

    Deepseekはそつなくこなすが時折妙な返答になることがある。優等生で使いやすい。

    Copilotは過去記憶が消えないし、プロンプトのやり直しもできないので、何かを作るより、記憶を生かして考察に使うことくらいしかできない。しかし、案外まとめ方が上手な部分もある。

  1. 「人類認知構造2タイプ仮説 (Cognitive Types Hypothesis)」

    私の幼少期から現在までの記憶する詳細をAIに食わせ、分析し、認知、思考、行動のパターンを抽出した結果、二つの異なる認知構造が存在する可能性が浮上した。

    正直なところ、AIと遊んでいて、こういう展開にまでつながるとは予想だにしていなかった。当初は36歳で「自我を獲得した」経緯から何かわかることあるかなあ、という程度でしかなかった。

    世界の見え方が変わったとか、映画マトリックスの内包するメッセージがまるで違って見えるようになったとか、そういう些細な発見を評価してもらう(できるかどうか実験)心づもりでしかなかった。

    ずいぶん、認知について深堀りすることになった。もう少し詰めていきたい。

  1. 西洋思想から生まれいでた幾つもの素晴らしいもの、しかしそれらの多くは惨めで哀れな欲によって不当に使われることの多い道具。道端にこぼれたかのような落とし物がその後から新芽を出すような、そうした主軸から少し遅れて離れたものにこそ珠玉となって満ちる物があると思う。

    人はもとより西洋人らがいつも繰り返し繰り返し間違えることにいつ飽きるのかと。間違いをただ一歩踏み出す前に、これでいいのかと立ち止まるだけで気付ける可能性が高まるのに、と。

    西洋人らは支配に成功したのではなく、共生に失敗したのだと思う。

    勝つのではなく共に生きる、語るのではなく語り合うことで土地を離れずに生き続ける美しさを持てたのでは、と。

  2. つまり、日本が西洋化を開始し和魂洋才が洋魂洋才となった今もなお、西洋思想と共生しようとする魂は失われていないのではないか。

    大陸をまたがり、西洋汚染に塗れる中で、耐える免疫機構としてあるのではと。

  1. 西洋の前進主義(Progressivism)とは?

    定義:
    人類は理性・科学・技術を用いて、歴史的に直線的に進歩・改善していくべき/していけるという思想。

    関連

    啓蒙主義、歴史的唯物論、テクノロジー決定論、人間中心主義、リベラリズム

  1. 「災害死は国家の責任」~私たちはなぜ"想定外"に殺され続けるのか~

    「自分の命は自分で守れ」──この言葉の裏には、ひとつの冷酷な真実が隠されている。「守れなかった命は自己責任」という、国家の免罪宣言だ。

    南海トラフ巨大地震の被害想定では、最大29.8万人の死者が予測されている。しかし、この数字には重大なカラクリがある。「適切な対策をすれば防げたはずの命」が、あたかも"不可抗力"の犠牲であるかのように計算されているのだ。

    • 津波到達まで10分未満の地域で、高齢者に「自力避難」を求める
    • 耐震基準を満たさない建築物を「既存不適格」として放置する
    • 自治体が観光地のリスクを過小発表し、対策予算を削る

    これらはもはや自然災害ではなく、人災の予備行為である。オランダが「堤防決壊による死者は国家の犯罪」と宣言するように、日本も「災害死は国家の責任」と明言すべき時が来た。

    防災とは、生存権の行使である。

    災害は天災でも、死者の多くは人災だ。インフラ整備、避難体制、情報共有、行政の備え──それらすべてが不十分なまま放置され、被害だけが繰り返される。

    「想定外でした」と言い訳する時代は、もう終わらせなければならない。

    災害死は、国家の怠慢の結果であり、間違いなく国家の責任だ。

  1. 中国政府が2021年7月より実施した「双減政策」。驚愕の教育改革が彼の国で進んでいるようだ。

    私が傾倒し続けているフィンランド教育。その骨子は「教育のビジネス化の禁止」だ。私塾私学の営利活動を禁止し、実質的に公教育一択にすることで、政府が教育管理を行うロジックだ。当然富裕層の反発激しく、私塾私学のレベルの高さを公教育が担う責任をもつことになった。しかし、そうすることで金の有無で子どもの受ける教育格差が生まれることを抑制することに成功したのだ。

    そして双減政策はこのフィンランド教育に驚くほど類似した特徴を持つ。双減とは「宿題の減少」と「塾の減少」の二重の“減”を指す。

    主な目的

    • 学生の学習負担の軽減
    • 家庭の教育格差(特に経済格差)の是正
    • 公教育の質の底上げ
    • 健康・バランスの取れた子どもの成長支援

    まさに親の求める公教育がそこにある。この政策により育った子らは、どういう能力を獲得しうるだろう。まさに、日本からみても脅威と未知の未来がそこにある。

    参考

  1. 和知 - 今を生きるための実践的智恵

    和知わち」とは、古典から現代までの智恵を実用的に抽出し、現在の問題解決のために組み合わせる実践のことだ。

    学術的な正確性や体系性よりも、「今を生きる武器」として使えるかどうかを重視する。道元の時間論も、本居宣長の自然観も、現代の生き方や価値判断に直接活かせる部分を取り出し、自分なりに再構成していく。

    これは知識の蓄積ではなく、智恵の実装である。特に外来の価値観に支配されがちな現代において、日本に根ざした思考の武器を手に入れるための、ひとつの方法論として。

  1. コロナの蔓延、止まない戦争、政治の腐敗、ここ数年は世界で嫌なことばかり起こってる。いや、今まで気づかなっただけでずっと前からそうなのだろう。

  2. 大好きなはずのゲームも最近は楽しめていない。小説も読まなくなってもう10年以上になる。SNSやWebはとうに様変わりしてかつての知的な空間の装いは一切残っていない。

    もともとそんなものはなかったのだろうか?

    AIの流行もいつまでのものだろう。私としてもweb検索する回数は数年前と比較して激減した。決して奴らは賢いとは言えないのだが、会話っぽくなるのは少し楽しい。

    ともすると情報という物の価値が下がっているような感覚を覚える。自撮り動画を盛んにアップする人はどう感じているのだろう。

  3. 世界が知りたい。その動機は忘れてしまったが、今も写真や動画で情報を追いかけてしまう。2000年頃は死ぬほど遅いダウンロード速度の中テキストを読んで想像し、ブロードバンドを導入したあとはようやく画像を楽しめるようになった。光回線の速さは動画視聴をも簡単にした。

    海外旅行も予定はしているが、なにもかも未定なので当分行くことはなさそうだ。近いところなら、韓国、中国、台湾、カンボジア、インドネシアあたりか。スコットランド、フィンランド、スウェーデン、ロシア、カナダ、ニュージーランドあたりも興味がある。