メモ、感想、気分、思考。
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使わなきゃ大丈夫なようだ。
#05c
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とした。
HTMLを単なるGUIツールとして捉えるとこういう議論をすることになるのか。セマンティックとかはどうでもよくて、使い勝手のいいWebGUIであってくれたら、といったところだろう。アクセシビリティを問題にせず、セマンティックである必要もないアプリの場合、画面描画に利用される技術がJavaScriptやFlashだろうがHTMLだろうが何であったって構わないのだろうし。
アプリとして機能しつつもWebの持つ恩恵を受けたいのは理解できるが、HTMLをそういった用途に使うのは骨が折れるだろうに。
HTMLではない他の何か便利なGUIツールがあれば、セマンティックな運用をしたい人とそうでない人を分離できていいのだろう。HTML5がそのような分水嶺の役割を果たす期待もあったが、微妙に邪魔な存在になってしまった。使いたい機能もあるが、HTML5自体を使いたくないというか。W3CがHTML4.01などにそういった便利な仕様だけをうまく取り込んでくれると大変ありがたいのだが。
確かに死ぬことは無駄だと思う。でも生きたことは無駄じゃない。何も残さないわけじゃない、生きたことそれ自体に価値があり、たとえ人類の最後の1人だったとして、生きたという印(事実)がある。だから無駄じゃない。もし生きたこと自体を無駄だというのなら、そんなのは当然のことだ。地球に生まれ、地球に死ぬ。単にそれだけの事。私は自分で何も作らない。何も持っていない。何も無い。無くて当然。すべては自然のことだから。自然から借りているだけ。戻るだけなのだと。そう考えたら何も怖くなくなった。生きたことは無駄じゃない、意味がないわけじゃないんだと。無駄じゃないか、生きてすぐ死ぬなんて……。
無粋に思えてあまりお話ししてきませんでしたが (略)
表現者は皆こう言うよなあ。どんな理由からなんだろう。
シェルワンは、インタビューをこう結んだ。「僕は自分のことを、グローバル・シチズンだと思っているよ」
インタビュー内容も興味深いが、この発言に引かれるものがあった。正直、自分を「日本の民」だと強く意識したことはなくて、さりとてグローバルなる感性も持たない。日本は好きだし、日本語の美しさを見るときに感動を覚えたりするけれど。
なぜそうした意識を持つのかといえば、過去を振り返っても何かを得たより、失った思い出のほうが多いからだろう。ろくな幼少期を過ごすことなく大人に成長してしまったがために、30歳までの言動には不覚のものが多く含まれる。
ここにきてことさら思想を語りだすのも急に自覚的に言動を調整するすべを得たから。かなり乱暴な表現ではあるのだが。
正直、叱らずに褒め続けるのは難しいように思う。
褒めなくていいんじゃないかな。完了したことに対する褒美は子供自身がすでに得られていると思う。空いた時間や達成感や親からの承認といったものを。
私の場合、タスク完了とは別に、普段からの愛情表現を強く意識して接するようにしている。特にハグ、キス、手をつなぐなどの触れ合いを最重要視している。それらの行為が少ないとほんまに寂しく思うし、思春期の多感な時期だとなおさら。
そもそも叱ったり、褒めたりするのは本人じゃなく、親の問題であることが多いと感じる。私もそれらの行為を全くしないってわけじゃなく、気分とか感情からそういった表現になることは多い。自分も完全無欠の存在だとは考えていないのでとくに気にもしないけど。叱らずとも褒めずとも人はうまく育つものとして、接してみるといいと考えている。
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となっているのは、おそらくloop_count
が正しい。
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が理解しづらいが、そういうものだと思って進めてみる。
これらを組み合わせれば料理の完成。
味のベースは塩味。好みで醤油、みそ、ポン酢、マヨネーズ、キムチ、ウェイパー、等々。