メモ、思考と実験。
私にとっての英語学習の目標地点の1つがこれだ。日本人同士では話す機会の少ない話題だったり、他国の人ならではの意見を聞くこと。日本では手に入りにくい他国の事情をその国民に聞くこと。そして他国から見て日本の考えや文化はどのように見えるか聞くこと。アメリカなら銃、人種差別、ホワイトフラジリティ、ネイティブアメリカン、児童婚、BLM、Karen、チップ制度、戦争、移民、ジェンダー等、イギリスなら王室、貴族、犯罪、植民地、アイルランド、スコットランド、食べ物等。そういったものについてスムーズな会話や議論ができるようになりたい。
ただし困った問題もあって、英語ネイティブの国自体に興味あったりするわけじゃないのでモチベーションの保ち方に悩む。たとえばアメリカが好きであるとかなら、その国に興味を持つことでモチベーションを維持できそうである。しかし、そういったものが無いせいで発音すらいまだに決めかねている。一応イギリス発音を基準として用いているが、教材の多くはアメリカ発音だったりするので悩ましい。
そのイギリス風発音にしたって独り言で言ってるだけに過ぎず、もしかして全くダメな発音になってたら後年苦労するんじゃないかと心配している。さっさとネイティブと簡単な会話できるようなアプリなんかで発音をチェックしてもらった方がいいのだろうけど、いまだに勇気が出ずにいる。
長い。このページは上下に長すぎる。Webってのは流し読みするものなんだけど、ここまで長いと流すことすら億劫。
長すぎると何が大変かって、どこに何が書いてあるか探すのが大変なのよ。スルスルーって下にスクロールしても全然進まないんだよ、下に。長すぎるから。
となると探しやすくなるよう改良したくなるんだけど、上手い方法が思いつかない。目次を作る?段落をテーマで絞る?日記に書く内容を制限する?UIを新しく付け足すか、もしくは内容を切り刻むような方法しか思いつかない。
来年はブログ作ってそっちに書こうかなー。
2年前から愛用してる文房具の話。ボールペンでジュース アップの04なんだけど、先日パステルピンクを買ったんだ。ジュースアップの04は細い線が書けるのにペン先が紙にこすれてカリカリしないところが気に入ってるんだ。特に黒はインクがジャバジャバ出てくる感触でカリカリ感ゼロなわけ。で、パステルピンクなんだけど、これがどうしたことかカリカリするんだよ。
最初は不良品かと疑った。返品して別のと取り換えてもらおうと考えた。でももしかしたら何か工夫すれば直るんじゃないと思って色々調べたりしたんだけど良くならない。やっぱり書いてもカリカリする。しかもよく見るとインクが出てない線がところどころにある。疑い始めると何もかも疑ってしまうわけであれこれあらを探し始めた。
そのうち分かったのは右払いを書くとインクがほぼ出ないってことと、黒に比べて圧倒的にカリカリ感があるってことの2つ。右払いってのは「大」の3画目みたいな線のことね。で、黒と比べて違和感があるんだからと気づいて手持ちの他の色も確かめてみたわけ。その結果、パステルブルー、パステルパープル、パステルグリーンの3つも実は全く同じ状態だって分かった。あれれ、パステルピンクだけじゃないのか。
パステルじゃないブルーブラックも比較してみると、黒>ブルーブラック>パステル系の順で書き心地が悪くなっていた。もちろんインクが出ない症状も同様だ。
ジュースアップ04 | 書き心地 | インク |
---|---|---|
黒 | ★★★ | ★★★ |
ブルーブラック | ★★ | ★★ |
パステルピンク | ★ | ★ |
パステルブルー | ★ | ★ |
パステルパープル | ★ | ★ |
パステルグリーン | ★ | ★ |
こうなるとパステルピンクの不良という疑いも無くなってしまう。これはそういう商品なのだと。黒以外の色は何かの原因でカリカリするインクになってしまっているんだ。そう気づいてから以前パステル系で書いていたノートを見返してみると、確かにインクが出ていない線がいくつもある。当時は気づいていなかっただけだったのだ。
そうなるとこのペンの使用を止めるか、うまく付き合うかという話になるのだがその前にいくつか考えてみた。パステルピンクを買うまでどうして気づかなかったか。それは単純で今まで大きな字を書いたことが無かったからだ。小さい字だと単純に線が短い。なのでカリカリ感も一瞬しか感じないし、インクが出てないのも気づきにくい。大きな字を書いたのが実はパステルピンクが初めてだったというわけだ。
しかし単純に大きな字を書いただけでインクが出ないというのも不思議だ。小さい字と比べてインクが出ない確率が高いのだ。右払いを大きく書くと100%インクが出ない。しかし小さく書くと20%くらいの確率に下がる。
そこでさらに実験してみた結果、結論が出た。線を書く速度が早いほどインクが出なくなる。単純な結果だ。大きい文字のときに確率が高まるのは線が長いために線を書く速度も早くなったからだった。
ああ、すっきりした。どのみちパステル系は補助的に使うだけだし、メインで書くのは黒だから今まで通りの使い方で苦労しなさそう。それよりこのペンの特性がはっきり分かってよかった。
ちなみにインクが出ないって状態は以下の動画も参考になる。4分22秒辺りで紹介されている症状とほぼ同じだ。「力を入れて」って文字がアップになる場面で「力」の2画目や「入」の2画目を見てほしい。こんな感じで真ん中がインクが出ずに白抜けするんだよね。
【濃く書ける新開発ゲルインク】uni-ball oneの紹介!【文房具/水性ボールペン/ユニボール ワン】 - YouTube
数年前に知り合った人がこのような生き方をしていたと語ってくれたことがある。記憶は頼りないが思い出せる範囲で書いてみることにしよう。
仮にその人をR氏とする。R氏は、それはもう大変な気の使いようで周りの人から有難がられていたようだ。自他ともに認める気の利く人。目配りできる人。優しい人。そして便利な人だったと。なんでもしてあげるのが好きだったし、自分でも気に入った性格だったようだ。
R氏がこのままじゃいけないと感じたのは、ある女性に裏切られたことがきっかけだったという。ここが一番肝心なのだがちょっと思い出せない。確かその女性は会社の同僚で、何かを頼まれていつも通りやってあげていたら、裏でR氏のことを便利なやつだと話してるのを聞いてしまったとかなんとか。
それ以降便利な人間というのは、周りの人間に都合よく使われて人として見られていないと考え直したようだった。そうしてR氏は今までの自分を捨て性格も180度変えて、言いたいことを言うと決心した。
私が出会ったときには実際多くの日本人が憚って言わないようなことを言っていた。まさに竹を割ったような振舞いを見せていて到底気配り上手な人だとは感じなかった。もちろんだからといって嫌な人だということではなく、それがR氏の今の生き方なんだろう。私は好きですよ、そういう人。気兼ねなく本音で話せて会話のリズムがいいからね。もっと話しとくんだったなあ。
私の経験から言うと便利な人はどこでも働ける。有能な人は合う合わないがはっきりしてるから合わない職場はむしろ増える。
一般に便利な人たちって奴隷根性をもってることが多い。付和雷同とも。思うに誰かに従うのが得意で周囲に合わせ顔色を窺い本音と不満は表に見せずに裏で吐き出す。そんな人ばかりとは限らないかもだけど、見ていると自分の意見は無いのかなと思う。彼らはきっと親や周囲の大人からよく褒められて育ったんだろう。そのせいで誰かの期待に応える生き方が普通だと誤解してしまったんじゃないかな。皆と仲良くしよう。誰に対しても親切にしよう。連帯責任。自己責任。……なんてものは全部嘘だし、むしろ呪いの言葉。その人を都合よく扱うための方便なのにね。
自信がもてないと言ってるし繊細な人なんだろう。自信を持つのに理由なんて必要ない。しかし自信を持つと自分から意見をいう必要が出てくる。自分の意見を言った時の周囲の反応を気にしすぎているんだろう。ネガティブに想像してしまい怖がっているのかもしれない。
性格ってのは考え方ってことなので自分で変えるしかないし、それ以外に方法がない。考え方っていうのは単なる技術なので後天的に学んで身に付けることが出来る。大人になってから料理を覚えることと同じで、その技術を身に付けると便利だろうなあと想像して取り組むと捗る。
数年前に和服を着ていたときのことを思い出した。当時和服を着始めたころ、折角気に入った服装をしているのに出歩くことが出来なかった。理由は単純で、恥ずかしかったからだ。和服着ている若い男なんて目立って仕方ない。田舎ならなおのこと、しかも習い事や稽古のためじゃなく単に着てみたいという好奇心だけで和服を着ている。そんな風に考えていた。けれどどうしてそんな風に感じなきゃいけないんだと思ってWebを漁った。同じように悩んでいる人がいないか、その人はどうやって外に和服を着ていくのか調べた。いくつか見るうちにごく当たり前のことを書いているのを見つけた。「誰もあなたの服装なんか気にしちゃいない。」そういうことだった。気にしてるのは周囲の人ではなく自分。何かを言われたから着ないのではなく、何か言われそうなのが嫌だから和服を着て外に出ない。そう決め込んでいるのは自分。その週末には無事和服を着てコンビニや本屋やショッピングに出かけた。
変わりたい人が変われることを祈って。
ところでこのコンテンツは本日2つ目の記事なのだが、特に違和感がない。同日前段の記事は朝頃書き、この記事は昼過ぎに書いている。いつもならLI要素を足してから続きを書くのだがテーマが違うし、同じタイミングで書いていない。となると同日であっても別記事という気分になる。そしてそのように書いてみたが上記の通り違和感はない。
LI要素を連ねて書くスタイルを適当に真似して始まったこの日記。すでにLI要素を連ねるスピード感は不要になっている。そうしたものはTwitterに流しているからだ。んー。いたとするべきか。もうTwitterやはてな等SNSで発信することはないと感じている。あるとしたら誰かに反応したくなったときかな。自分から何かを発信するのはここですればいい。
んー。書いていて気持ちがいいなあ。P要素最高だよ。LI要素は包容力があって気楽でいい。Webだから文字数を気にしなくていいし、レイアウトもCSSのおかげで美しくまとまってる。出来る範囲でセマンティックにマークアップしてるからアクセシビリティもそこそこ確保できてるだろう。SEOとやらは絶望的だがあれは1記事1テーマ制で判断してるだろうから放っておけばいい。どうでもいいことだ。そしてこんな駄文はここでしか書けそうにない。この段落になんていうタイトルをつけるんだ?考えるだけ無駄だろう。この段落で誰かに読んでもらいたい内容なんてない。ただ自分が書きたいだけだ。
教えることを誤解している人が嫌いだ。教えるとはどういうことか。辞書にはこうある。
1と2を混同して使われるのが嫌いだ。そしてそういう人は割と多い。
一方的に話して教えたことにする人がいる。自分の話したいことをただ話してるだけ。ただ声を出してるだけ。相手がどう聞いたかを気にもしない。なんなら聞いたかどうかを聞き手に聞いてきたりもする。声は聞こえてるよそりゃ。しかしあなたの声は私の耳までたしかに届いてるけれど話の内容は届いていませんよ。あなたにとって聞き手の都合なんてものはどうでもいいことなんでしょう。まったくでたらめだ。
教えるってのは辞書にもあるように聞き手のことを十分に思うことでしょう。導くってのは手助けするってこと。人を助ける心がそこに必要なわけ。聞き手に配慮もせずに身勝手に話しておきながら、まるで教育者であるかのように振舞う。そういう態度をとる人を見ると心がささくれ立つ。
一体全体何をどうやったらそんな教え方が身に付くのだ?何をお手本にしたらそんな話し方が教えることなのだと誤解するのだ?親か?教師だろうか?まさかTV?
教え方を誤解してる人は子育てにおいて圧倒的に不利だろう。なぜなら自身の身に付けた知識や技術をまともに教えられないのだから。実は親子のコミュニケーションで上手くいかない原因の1つはこれだと思ってる。話すことと教えることの違いを混同したまま会話してうまくいくはずもない。
余談だが反抗期というものはないと考えている。というか子供に反抗期があるのではなく、親や周囲の大人が反抗される理由を作り出しているだけだ。それに反抗したくなる時期がちょうど10代ということだろう。年がら年中ピントの外れた言葉を浴びる子らがかわいそうである。
あるサイトが人気だという。見てみると少し危うい感じだった。
サイト名に性教育とある。著者が教育の専門家なのかどうか気になるところ。そこで本人のツイッターやサイトの案内文を読んだが、イラストレーターとして性的な分野に関わってきたという以上の情報は確認できなかった。もし教育を行う人が教育者として十分な学習を受けて無いとしたら恐ろしい。
他にも誤解を招く表現がいくつかみられた。不安だ。果たしてきちんと性教育について学んだのだろうか。このサイトを訪問することによって誤った観念を身に着けたりはしないだろうか。
「イギリスの小学校教科書で楽しく英語を学ぶ」を読み終えた。巻末に近いところに載っていた上記のレベルチェックは多読力チェックとして助かる人も多いんじゃないだろうか。ちなみにThe Laughing PrincessはOxford Reading Tree(ORT)のStage 6。YLでいうと0.6くらい。語数は470。The MotorwayはORTのStage 7で、YLは0.7、語数は880。
私の場合3に当てはまった。The Laughing PrincessもThe Motorwayもスラスラ読めたし、内容も取りこぼすことなく理解し楽しんで読むことが出来た。登場人物の行動パターンや性格なども感じることが出来た。Stage8や9にも挑戦してたいと思えた。
むしろもっと簡単なレベルであるStage 3のA Cat in the Treeの方が読み解きにくかった。crossが怒るだとか、stuckが動けないことだというのは初見ではちょっと分からなかった。幸いclimbが登るときだけじゃなく降りるときにも使われていることは知っていたけど、不自然な姿勢で動くイメージまでは持ってなかった。言われてみれば確かにそういう場面で多く使われていた気がする。
他にも初回ではイメージのつかなかった単語、文章をいくつか書いておこうかな。
had、What a job!、What an adventure!、Not another chicken!、ran off、and that、She was good fun.、It can't be helped、orchidaceae、and so was。
クールなURLは変わらない、だっけ。
今となってはよく分からない。無くなることのないリソースとしてずっと利用可能であることが望ましいとかそういうことなんだろうけど。それなら一旦アップされたものが永続保持されるような仕組みも一緒に実装すればよかったような。
個人的なことをアップしてしまって、後でまずいと思って消す。なんてことはない。すぐ消されるような情報に価値が無いとも思わない。消したことでwebの価値が減じたとも思わない。情報が消えるという事実のせいでwebの将来に幻滅することもない。もちろん消えない情報ばかりのwebが存在したとして、それに比べれば価値は低くなるだろうけど。そんなものどこにもない。
果てしないリソースを置いてあるwebという存在はこれからも重宝すると思う。良い情報が見つかりにくいだけで。
そんなこととは別に、URLリダイレクトとかは手間とコストの問題でしかないのだから営利企業はきちんとやれよ!Adobe、お前だ!
デカイところのドメインで記事が無くなってるとマジで幻滅する。その企業に。
ブランドやファッションあたりのドメインは全く信用ならん。最初から期待していない。あいつら傍若無人がウケルって知ってるしな。
傍若無人といえば建築業界もか。こっちは中身すらない。スカスカの家建てて終わり。施主が本気で建築知識学ばないとまともな家なんて建たないですし。施主は自衛のためにパッシブハウス学んどけ、とりあえずは。
パッシブハウスが衝撃的過ぎてあちこちで布教してるけど、パッシブハウスで全てが終わりなわけじゃなく。というかさ、何か新しいもの見つけたり知った時に「それで終わり」って勘違いするのいい加減やめてほしい。パッシブハウスで全部解決しそうですね、じゃねえよ。「そこから始まる」んだよ。他にも地盤やらインテリアやら経年劣化やら補修やら設備やら耐震性やら見た目やら間取りやら予算やらいっぱいあるやん。
まあそれもこれもプロの建築家と自称する人らが全部頼りないせいなんですがね。建築系Youtuberも大体おかしな奴らばかりだから手に負えん。奴らの言ってることときたらとどのつまり食い扶持稼げなくて大変だから誰か騙されて家建ててくれーだ。
あまりにしようもないこと書いた。これも後で消すかもしれん。
雑文集のURLを置き換えた。WordPressが吐き出したり、適当な日付だった。それを一意な英文からなるURLに変更した。単語ごとの区切りにはハイフンを入れた。英文は記事タイトルの意訳。未熟な英語力ではあるがDeepLの力も借りながらなんとか作文してみた。たとえば「新しくNotebookを作ってみた」→「I made a new Notebook」といった具合。英語力が高まった時にもう一度見直してみたいな。どう感じるようになるんだろう。少しの楽しみ。
URL変更に当たってのリダイレクト設定は.htaccessファイルで行った。とりあえず問題なく転送されているようだ。
おー、なるほどって感じ。JavaScriptでHTML生成したがる人とHTMLを書いてCSSとJavaScriptで動かす人の2種類の人がいるって指摘。あくまで傾向であって完全に分かれてるものじゃないけど。コメント欄ではこれに加えて熟練度による分け方もあるってな指摘もされてるらしい。それもなるほどって感じ。
ところで私なんかは完全に後者。JavaScriptでコンポーネント作ってどうたらこうたらってのは全く性に合わない。でもって技術的なことを検索してるときに前者の記事によく出会うなあと気づいた。今頃。当然それらの記事が役に立つことはあるのだけど、ほぼ採用できてないんだよね。その理由が私の技術力不足にあると断定してきたわけだけど、こういう理由もあったのかもしれない。
振り返ってみると確かにそういう面を感じることはかなり多かったように思う。ああこの人たちはJavaScriptが得意なのだなと勝手に思っていたが、むしろそれが当然だという感覚の持ち主だったのかもしれない。そう学んできていたらそうなるのも自然だ。
各人が自覚しやすくしたり、他者から見て判別できるような名称が必要なのも理解できる。でも何と呼ぶかはまだ決まってないぽい?フロントエンドエンジニアとフロントエンドデザイナー?JavaScriptデザイナーとHTMLデザイナー?フロントエンドのフロントエンドって呼ぶ人もいてカオス。
しかしおかげで今後はJavaScriptがメインの人の記事はそういうものなのだと認識して読めるからありがたい。
似たような場面に出くわしたことが何度かあった。一度は問答無用で救急車を呼ぶことが出来、一度は呆然と立ち尽くし、一度は倒れてる人を見つめて何もできなかった。
思い返してみると、事前に対応する方法を心得ていた場合に具体的な行動をとることが出来たように思う。反対に倒れた人に対する対処法が事前に想定できていない場合何も行動することが出来なかった。
反応できなかった2件はどちらも列車内で起こったことだ。屋外なら救急車を呼べばいいが、列車内での想定すべき対処法を知らない。あとで調べておこう。
まずい。別にまずくはないのだが、いや、やはりまずいことになった。新しいブログを作らなくてもよくなってしまった。どういうことか。
英語多読ブログを立ち上げるつもりだった。多読するにあたっての問題は本だ。多読は自分がすらすら読めるレベルの本を大量に読む。多読の問題として、自分のレベルにあった本がどれなのか判断付かないというものがある。本の中身が確認できればいいが書店には置いてないことが多い。ならばネットでと思うが、これもまた内容の確認できる本は少ない。となると試しに買ってみるしかない、となる。
しかし洋書は高い。簡単な英語で書かれた本はページが少ない。20~30ページ程度しかない。そんな本が600円とか1000円とかするのである。気になる本を取り揃えていくとたちまちにお金が消えていく。図書館で借りる方法もあるが、近所の図書館に洋書の所蔵がないこともある。私の近所の図書館もこれだ。そこで新ブログの出番だった。限られた予算の中から良書と思われるものを購入し、その本の読みやすさをレビューすることで多読者の判断材料の1つになるつもりだった。しかし見つけてしまったのだ。先駆者を。無料で読める多読向けの本を大量に紹介したサイトを。私のブログは予算が限られるが故の苦肉の策といった工夫がある。しかし無料で読めてしまえばその工夫は不要となる。何せ買わなくていいのだ。いちいち私のブログを開いてレビューを読むひまがあったら、さっさと無料で読めばいい。もし合わなくても違う本を読めばいい。幸い紹介されている本の多くは面白いものばかりだ。そのサイトが以下のものだ。
まずいわけじゃない。むしろ良い。私がブログを書く理由が無くなっただけだ。少し寂しいが本分は英語を学ぶことである。大事の前の小事。ありがたく無料で読むことにしよう。作りかけのブログは未完成のままだ。何か別のテーマが見つかったら、その機会に応用することにしよう。
実際のところ、非常に助かるブログが見つかったと思ってる。ブログを作る作業は難航しながらも楽しいものだったが、同時に記事を書く時間より本を読む時間が欲しいと思ってもいた。すでにいろいろな洋書を読んでみて感じたが、どの本も話の内容がよく練られていて面白い。洋書を読み始めたばかりのころは内容の当たりはずれを気にしていたが、この頃はそんな心配はほとんどしなくなった。それよりも難しすぎて読めないとか簡単すぎてすぐ飽きてしまうとか、ページが少なすぎて物足りないといった事情の方がよほど気になっている。
なのでよほど気に入る本がない限り買うことはないだろう。と思う。まあ無料で読む場合はほとんどPCで読むだろうからいちいちデスクに座る面倒くささがある。そういうのが嫌な時ようにいくつかお気に入りの本を手元に置いておくことは良さそうだ。
というわけで大量の薄い本を高い金を出して買うということはしなくてもよくなった。去年あたりからこつこつ買いそろえたレベルの高すぎる本がいくつもあるが、そのうち読めるようになるだろう。
参考までに今の私の英語読書レベルは、I Can Read Level 2 の
がゆっくり読めるくらい。この本だとまだ「すらすら読める」とはならない。本書から一文を紹介してみよう。
たとえば上記2行目の文章はぱっと読み解けない。How longはすぐわかる。asleepもわかる。問題はhave I beenだ。haveのイメージ、beenのイメージが頭の中にまだ無い。なんか昔のことそう?何か持ってる?身に着けてる?うーん、てな感じ。前後の文脈からずっと寝てるってことかな?と予測できるくらい。時間をかければ段々見えてくる感じ。
こういった本を読むときは日本語に訳したり単語の意味を英和辞典で調べたりはしない。あくまでイメージする。「分からない」を解決する方法に使う時間を調べるから想像するに切り替えてる。
これは普段あまり取らない方法だ。知識をインプットすることに慣れてくると想像することをしなくなるんだと気づいた。英語の初歩を学ぶにはインプットじゃなくイマジンするしかない。
というわけで私の英語読書はまだまだ始まったばかり。すでに無料でいくつもの本を読んだけどとっても面白い本ばかりだ。たくさん読むぞー。
クリックしたくないリンクにはこんな感じで対応してる。
a[href*="amazon.co"] {
cursor: not-allowed;
}
a[href*="amazon.co"]:active {
pointer-events: none;
}
こつこつ作っていた新しい書評ブログで悩んでいるところが少しあって。URLとタイトル。何を含めるのか。連番URLは捨てがたいが管理が面倒になりそうだ。それにURLからコンテンツを類推することが出来ない。どちらにも日付は不要だろう。著者名はかなり悩むところ。他の書評ブログを検索してみると含めてるところとそうでないところが半分半分といった様子だった。著者名は含めることにしよう。
URLとタイトルを完全一致させるかどうかも悩むところ。URLはモバイルユーザはほとんど見てない。URLでタイトルと一致しているかどうかはあまり重要なことではないように思う。
reviewと書くかどうかも悩む。URLでは英語を利用したいのでreviewとなるがタイトルやdescriptionでは日本語も使える。書評?紹介、感想、読後、読書、レビュー。候補が多く悩みどころ。
そういえばブログのタイトルもまだ決めてなかったんだった。
この1週間でこつこつ作っていた新しい書評ブログは80%の完成を見た。ブログシステムはSoupaultを使うことにした。Web1.0推しのCMSなのが気に入った。マイナー故にプラグインに乏しいが我慢するしかない。自分で開発する技術力はない。
正直触っているといろいろ不満点はある。だけど多くのSSGが採用するテンプレートエンジンを触るよりマシだった。VSCodeでHTML書いてローカルファイルをブラウザで開いて、更新ボタン押して表示を確認する、なんて時代遅れの作業をやっている人間にはこれくらいで丁度よい。
タグやらカテゴリーやらのアーカイブページすらないがそれもこの際無視した。全部トップページに載せて問題がでたときに考えることにする。それほどの量の記事をはたして書けるかどうか。飽きるのが分かってるからこそ運用が楽になる形を望んだのだ。ツールのVerUpに伴って更新作業するなんてとんでもない。依存関係のあるライブラリなどに関しても同じ。
時代遅れながらも作っていて色んな気づきがあった。HTMLは進化し書き方が明確になったようだ。セクションに関してどの要素が適しているか例示も豊富なので迷うことが無いのがうれしい。一方で数年前から使い方が変わっていないだろうという「だろう運用」が通じない要素があるかもしれないと心配でもある。適宜直すつもりだが積極的ではない。
書評ブログということでAmazonアソシエイトにいろいろデータを借りようと考えたがすぐに辞めた。Amazon嫌いだし、そう公言できなくなることにイライラすると考えたからだ。あれは必要悪なのであってけっして善などではない。
ふと思い立ったのでFirefoxのアドオン晒そう。インストール済みは全部で8つあった。
わかるわー。
HTML表現に対して違和感を持つことってある。しかしこうした感覚を持たない人は案外に存在していそう。HTMLを単なる技術、webに必要なものとしてのみ捉えてしまうとそうした感覚が育たないように思う。
SSGだかJAMstackだかで新しくブログページを作り始めた。Next.jsやHugo、Jekyll、Nuxt、11ty、lume、etc。いまのところどれをとっても私には帯に短したすきに長し。さきほどMini SSG: simple static site generatorを見つけたがどうだろう。期待した通りのものだといいのだけど。
SSGをいろいろ見て回って残念に感じることがあって。それはHTMLの扱いが雑なこと。そして.mdを神格化といっていいほど丁重に扱ってること。.mdはHTMLの代わりになんかなりやしない。webはHTMLだ。なら.mdなんて使うべきじゃない。
使うのであれば謙虚であらねばならない。HTMLを端に追いやって王道を進むべきじゃない。これは単なる愚痴だ。不満だ。しかし切実に申し上げたい。HTMLを書かなくて済むwebは使いたくない。
p要素は段落だし、li要素はリストの一員だし、h1要素はタイトルと並ぶ重要な見出しとしてマークアップしてる。そこに意識が及んでる。書くときに意識している。この文章は、データは、表は、画像は何要素でマークアップするのがいいかと思考する。HTMLとコンテンツの関係性を見出す。その思考の流れが気に入ってるんだ。
引用やリンクを用いるときいつもブックマークレットで取得してる。そのブックマークレットはよく改変される。HTMLとの関係性を疑うからだ。そのマークアップは今なお適切かどうか考え直す。そうしたいのだ。その思考こそがHTMLを直接触る喜びだ。文章だけしたためて満足するならとうの昔にそうしてる。HTMLとの関係性、表現力、それらを使い切る満足を得るためにwebで書いている。
HTMLのマークアップは定期的に見直す機会があるのだが、そのたびにCSSとの整合性を取るのが面倒に感じている。古いマークアップ用のスタイルと新しいマークアップ用のスタイルを混在させる方法もあるが冗長に感じて好きになれない。
全部書き下ろすのもいいのだろうけど、そこまで情熱を持って取り掛かる元気はない。いっそのこと古いマークアップ文書とCSSは一まとめにしてメンテナンス放置するのもありかもしれない。
HTMLの豊かな表現にCSSがうまくついてこれないんだよなあ。なにかとカスケードが足を引っ張るイメージ。もっと自由にHTMLで表現したいのだけど。
パンくずは欲しいなと思う。それだけでサイト構造をぐっと認識しやすくなる。上記ページの場合、結局「ホーム」を押したくなって押してしまったし、URIの階層構造を推測して「/blog/」ディレクトリにアクセスした。このディレクトリは期待通りのページ内容だったが、その時点でパンくずが欲しいなと感じた。
昨日GoogleやDDGの検索が使い物にならないという話をしたが端的に言うと「検索結果が大衆に寄った」のだろう。例えば「Webデザイン CSS」でGoogle検索すると下記のような結果が表示された。
この検索結果の1番上位に表示されたページにアクセスしてみると、そのページの内容は「jQueryとCSSアニメーションをはじめたばかりの方へ」と書かれた通り、JQueryとCSSを使ったアニメーションの実装例をいくつか紹介するまとめ記事になっていた。
つまり検索結果はWebデザインとCSSに関して詳しくなるための情報ではなく、WebデザインやCSSといったものはこういったものですよと概要を紹介する記事に誘導している。このことによって学びのあるページを見たい者となんとなく説明が見たい者とで反応に違いが出るのだと思う。
とはいえこれ以上考察を深めることは今はしない。こうした検索結果を受け入れどのようにWebサービスを利用するか自分でまた探すしかない。
記事を読んだがおおむね似たような感想。GoogleじゃなくDuckDuckGoを使ってるけど大した違いはなく、広告宣伝の上手なページが出てくることに変わりはない。適切な内容のページであってもSEOが出来ていないページは検索結果に出ることが無い。それがつらい。SEOの優れたページよりも内容の優れたページが見たいからだ。
YouTube、Twitter、Instagramなども使うがやはり期待した情報を得られないことが多い。検索に特化したサービスではないので使い勝手も良くない。
最近は検索してから概要やキーワードを知り、それをもとに書籍に情報を求めるという形で調べ物を進めることが多い。しかしこうしたコンテンツの収集方法はお金もしくは時間を浪費し、一体何のためのWebなのかと感じている。
想像もしなかった珠玉のコンテンツに出逢う喜び。それがないのが今のWeb。一応粘りに粘っていると数か月に一度そうしたコンテンツにたどり着くことがある。
繰り返しになるがこのようなページに出会うことが目的でWeb検索を行っているのだ。そこには金勘定や人気度などが入り込む余地はない。情報が全てであり、情報が目的なのだ。
他人から指摘されることはつまりあなたにそれを出来るようになってほしいというお願いなんです。この場合「出来ない人の気持ちをわかるようになってほしい」とあなたに考えの変化を要求しているんです。よほど人の気持ちを踏みにじった言動が目につくのでしょう。
この後に続く言い訳も「変わりたくない、変えない」保身からの言葉ばかりで他人と向き合うことなく終始わがまま。自分が絶対的に正しい、他人は自分と同じようになるべきだ、と他者を操ることに快感を見出している。ここまで自分に酔ってしまっていてはどんなアドバイスも馬の耳に念仏。
私も数年前まで全く同じ理屈で他者と接していた。だからよく分かる。本当に分かる。この人は孤独だろうと。それでいいなら、それでいい。だがもし離れていく他者を惜しいと思うなら、いつだっていいから自分に誤りがあるんだと気づいてほしい。その理屈は間違っているのだと気づいてほしい。
そのままでは繰り返すことになるよ。転職を。
学校の英語教育はおかしい。私を含めてそう考える日本人は多い。私たちは英語学習の正解を知らないのでどこがおかしいのか指摘することが出来ない。しかし指摘できないことを指して「英語教育におかしいところはない」とする人がいる。妙な話だ。おかしいと判断することと指摘できる知識を持たないことは両立できるからだ。
学校の英語教育はおかしい。しかしYouTuber英語指導者の存在に助けられている。彼らが言うには日本の英語学習者は誤解と偏見、誤りが混濁しているらしい。日本の英語学習者は英語の習得が至難であると。その原因の大きな部分を占めるのが「学校英語」の存在だ。学校英語は英語習得を目的としていない。大学受験で振り落とすためのテスト、これに合格するための受験英語だ。このような英語は現実の世界では役に立たない。それどころか本来の目的である「英語でのコミュニケーション」の習得を害する。
学校の英語教育はおかしい。日本人が英語を習得する場合、学校英語を学ぶ前に習得するのが一番楽だ。もし学校英語を学んだ後であるなら困難な道となる。この困難な道を「英語の深い森」と呼ぶことにしよう。当然「英語の深い森」からは抜け出す必要がある。その困難は個人差が激しい。なぜなら学校英語をどの程度理解したかによって森の深さがそれぞれ違うからだ。仮に学校英語をしっかり学べたとしてもその中には誤解、偏見、誤りが含まれているのだ。抜け出すための苦労がどれほどか分かるというものである。
学校の英語教育はおかしい。しなくていい苦労をするための教育。二度手間。困難を乗り越えて身に着けた英語話者はその苦労とともに自分の体験を一般化したがる。単語が大事だとか文法が先だとか発音をキレイにするだとかだ。ところがこの一般化されたアドバイスは同じ学習段階の人にのみ通用する。そして同じ学習段階にいるかどうか観測する方法は今のところなさそうだ。端的に言って彼らのアドバイスは役に立たない。ただし意味が無いのではない。適用される範囲が極端に狭いだけなのだ。もし仮に一般化したアドバイスが役に立つものならば日本人が英語を学ぶにはこうするのがいいと収束していくはずだ。しかし現実には新しく英語アドバイスを開発する人は減ることが無い。
学校の英語教育はおかしい。わざわざ言うまでもなく自明のことだ。しかしこのおかしさが英語教育ビジネスというものを生み経済の発展に貢献している。逆に言えばみんなが欲しがるものを間違って与えれば、それを直すビジネスが誕生するというわけだ。恐ろしい構造だ。この恐ろしさを理解しない英語アドバイザーを私は信用できない。
学校の英語教育はおかしい。英語学習を再開して何枚の目の鱗が落ちたことだろう。BigFatCatシリーズに始まり、英語喉、ニック式、日本人やネイティブを問わずさまざまなアドバイスによって学校英語の殻が破られている。先日久しぶりにハリーポッターを観たところ、聞き取れる言葉が各段に増えていることを実感した。意味は分からない。しかしなんと発音しているかは分かる。知っている単語や文法なら意味も分かる。驚きだ。
学校の英語教育はおかしい。牢獄のような学校英語の殻を破りきるまで私の戦いは続く。
先日グレタさんの発言を見て悪口や汚い言葉を使って感情的に伝えようとすることを自粛した方がより効果的な伝え方になる。そのように学んだところでグレタさんがまたこのような発言をしたのを見かけた。
このような発言を支える思考、反省、進歩。そうした成長を私も続けたい。
政府の圧政に無関心な多数が自己責任を謳うのは何の皮肉だろう?自己の責任を省み、政府の腐敗を指摘できていないのは彼ら自身なのだ。彼らが政治を学び政府を監視するとき議論は始まる。
改革を望むActivistが取るべき姿勢はこのような物だと思う。生活ひいては生命にかかわることなのでどうしても感情的に動きがち。しかし多くのまだ理解していない人々に伝えるにはどうしても冷静な言葉遣いが必要になる。
とはいえ、とはいえだ。どうしたら大半の国民を洗脳から解放するか。そう考えると頭の痛い課題なわけで感情的にもなるってものだ。そんなことをする必要があるかどうかも含めて。
それにしてもグレタさん、この時16歳。半端ないわその歳でこの境地。世界に立ち向かうっていうのはこういうことなのだと教えてもらっている。彼女は私の先輩だ。その行動力に敬意を表したい。
2021年11月1日8:30時点で自民党、公明党の勝利が確定。立憲民主党は席数を減らし、維新の会は飛躍的に席数を伸ばした。個人的に2019年以降ずっと応援してきたれいわ新選組は比例代表で席数を伸ばしたが小選挙区は1席も確保できなかった。
すでにはてなやTwitterやリアルで愚痴をこぼした。結果が全ての法治国家なのでこの結果を民意として受け入れるのみ。不正や陰謀などではなく正しく選挙が行われたのだと感じている。
というのも18歳で働き出して20年以上が経つが、まともに会話できた人はごく一部しかいなかったからだ。ほとんどの日本人は気位が高く、親切で、礼儀を守る。それと同時に学校以外での学習、論理的な思考、責任を伴う自己決定権の行使については全くと言って見られなかった。いくつもの会社を転職し渡り歩いている私の経験では業種、役職、性別、地域によらずこういった人たちが存在するのを見てきた。
彼らはごく短期的な見方で物事を捉え自分の知っていることを誇張しTVで見たことを自分の意見として主張することに長けている。接していて彼らは善人だと感じる。気のいい人たちだ。しかし怠惰で自分の殻を割って成長することがない。
一向に考えを変えずに現状のまま進むことを是とする姿勢は宗教の信徒に似ている。一度信じたものを二度と疑うことのない有様がそっくりだ。この宗教に名前はついてないが、以前検索してみたところ「日本教」という呼び方があるらしい。近代教育の持つ洗脳力の強さを感じている。
一方で今回の衆議院選挙の結果によって明らかになったのは私の問題点だ。多くの国民が勤勉だと誤解していた。いやマジでほんまに。先入観の怖さである。同じように学び、同じように成長したと思ってしまっていたのだ。現実はまるで違った。
どうすればいいのだろう?どうするのがいいか分からない。現実は少しずつ良くなっていると思う。しかしその動きは緩慢だ。生活が悪くなる一方では苦しみが増すばかりだ。
振り返って我が徳島1区ではどうだっただろうか。投票率56%と低い。県民が政治に関心を持っていないことがよく分かる結果だ。これに加えて年齢層別で投票率が分かるとさらに分析が進むがまだそのデータは出ていないようだ。
小選挙区では仁木博文を、比例代表ではれいわ新選組をそれぞれ書いた。今回の選挙では外交より内政を重視した。見渡す限り経済が滞り悲壮な表情が人々の顔にあふれている原因が内政にあると確信したからだ。
消費税廃止、最低賃金1500円、即時給付金支給。れいわ新選組が掲げる政策のうちたったの3つだけを以てしても投票するに値する内容だ。とくに私のような貧困者にとって直接現金がもらえる給付金支給は文字通り死ぬほどありがたい。
仁木は野党共闘の政策に合意し、野党の公認は受けられなかったものの市民の受けた痛みを回復しようとする気持ちが喧伝されていたように感じた。
地域別にみてみると、徳島市、小松島市、阿南市、勝浦町、佐那河内村、那賀町、牟岐町、美波町、海陽町では仁木が優勢。上勝町、石井町、神山町では後藤田が優勢となったようだ。吉田と佐藤の両候補はどの地域でも振るわず、2人合わせても得票率11%と小選挙区では支持のなさを示す結果となった。
また県内人口最大都市である徳島市は投票率52%と県内で最も低い投票率となった。これは前回の徳島市長選でも見られた傾向で、困ったことに徳島市民の半数は政治に関心が無いようだ。
後藤田優勢となった上勝町、石井町、神山町の3町ではお金の流れがどこから来るものなのか読みやすい結果になったともいえる。今後ニュースを見るときに参考にしたい。
右や左などといったお決まりの看板を持つのが精一杯の人ばかりなようで苦しい国民の教養。何かに寄りかかることと自分で立つことは全く違うのだが気づかないらしい。
広く自分に関わる政治的内容をそれぞれ理解し今より生活が豊かになるためにどのような政策が必要か調べる。そしてその内容に近しい政党や政治家を選び投票する。それだけのことができない。
Stardew Valleyのページを開くと目に飛び込んできたこのフォント。
とっても丸っこくて読みやすい。可愛らしくもあり一目ぼれしてしまった。調べてみるとNunitoというフォントらしい。Google Fontsから提供されているので気になる人はチェックしてもらいたい。
早速インデックスページにでも使ってみようかと思い、久しぶりにWeb知識のアップデートだなと張り切って検索してみたがどうやらフォント周りの進化はあまり見られない模様。仕方ないのでCSSに指定はするもののフォント自体はweb-fontにせずローカルに置いたものを参照することにした。できれば欧文にはNunito、和文にはメイリオを指定とそれぞれ最適な表示となるよう区別したいのだがそれもまだ出来ないらしい。
しかしながらこのフォントが気に入ってしまったのであちこちで使ってみたい衝動に駆られている。日記を全部英語で書くようにすれば和文フォントを気にすることも無くなるしとか、ごにょごにょ……。
「ウインド・リバー」(洋画 / 2017年)の動画視聴・あらすじ | U-NEXT
ネイティブアメリカン迫害の事実を映画化した作品。アメリカの抱える問題を克明に描いた秀作だった。静かな映画だがだからこそ迫るものがあった。
視聴後アメリカ先住民について少し調べると、現代のアメリカにおいてもまだ未解決の状態なのだと知る。特に問題だと感じたのは多くのアメリカ人にとってアメリカ先住民の問題は興味が薄く、特に解決するアクションが起きていないこと。理由は分からない。ただひどい状態が今も続いてるのだなと知るのみである。
多読をしばらく続けていたが、ここしばらくは多読もどきになってきた。多読が量なら質を重視する精読というのもあるらしいのだが、それとも少し違うようだ。
読書中に出てきた新しい単語はすべて辞書を引いて読んでる。かといって文意が完全に理解できるまで時間をかけたりはしない。文章のイメージがふんわりとできれば次に進んでいる。
読み終わった本は後日もう一度読み返し、その時分からない言葉があればノートにまとめている。ノート作りと辞書引きゆっくり読みが私の多読だ。
ふと書店で興味を引いた本があったので手に取ってパラパラと読んでみると、平易な英文だったので面白そうと思い買ってみた。
しかし読み始めてすぐに違和感を覚えた。確かに英語で書かれた小説ではあるのだが、なんだか英文らしくないのだ。まるで日本語を直訳したような英語で書かれている、そんな違和感。
平易ではあるけれど、とりわけて興味をそそられる内容でもなく、英文としての巧みさを感じないので平仮名だけで書かれた小説を読んでいるような感覚。イラストについてもどうやら背景の描けないイラストレーターのようで場面描写が物足りなく物語を盛り上げることに貢献できていない。少し残念だ。
ただし洋書を全く読んだことが無く、学校英語で慣れ親しんだ層には読みやすいのかもしれない。
ビッグ・ファット・キャットシリーズは学校英語の呪いを解いてくれた。この本に出合わなければきっと英語を理解することは出来なかっただろう。
学校英語が好きな人や受験勉強として本書を手に取るのはお勧めしない。短期間のうちにテストで減点を減らすような向きに作られているわけではないからだ。人生の楽しみや趣味として英語を学びたい人に向いている。ゆっくり学ぶことが推奨されているからだ。
本書の受け取り方を私なりに考えてみたが、つまるところ著者が言うように「最低限のルールを学んだら後は好きにすればいい」である。学校英語はおろか本書の内容だって打ち捨てていいと思ってる。楽しく読むことが最重要で、それ以外は枝葉でしかない。
本書では単語や発音、文法について学ぶことはできない。それらは別に学ぶ必要がある。本書で得られるのは学校英語にはない英語の楽しみ方である。
手前勝手な願望だが英語を苦手とする日本人の多くは本書で救われるだろう。しかし慎重に読んでもらう必要がある。今まで正しいと思ってきたやり方を変更するのは誰であっても強い抵抗を感じるものだから。学校英語の延長戦を期待するのは止めた方がいい。思い切って新しい英語を感じる勇気が必要だ。学校英語が嫌いで役に立たないと思う人は本書を素直に読むだけでいい。
興味深いのは本書は学校英語を否定しているわけではないということだ。そうではなく、別の全く新しい視点をもって英語を見てみる提案をしている。これが楽しいのだ。なぜなら英文なんて読みたいとも思わなかったし、読めるわけがないとも思ってたのに本書を読み進めていくといつの間にか英文を読んでいる自分に気づくのだから。
ビッグ・ファット・キャットシリーズを全て読んだ。楽しく読むことが出来た。英語で書かれた物語を最後まで読み切ったのはこの本が初めてだ。読めるんだなあと少し感動に浸っている。
物語の感動が冷めやらぬまま、また1から読みなおしてる。
1週目は音読しながら読んでみたけど、どうにも時間がかかりすぎてしまうので最初は黙読したほうがいいように感じた。1週目は黙読して7割理解できれば十分という気持ちで読み進めて、2週目に辞書引いたり音読しながらゆっくり読んだ方が良いように思う。
そしてこのシリーズの特徴は3部構成になっていること。1つ目はもちろん物語が書かれていて、続いて英文の解説、最後に洋書を楽しむための解説が載っていることだ。はじめのうちこそ英文解説に目を通していたものの途中からは全く使わなくなった。そんなことより続きを読みたくて仕方がないからだ。
ところが「おやつ」と呼ばれる洋書を楽しむための解説ページが面白すぎた。なにしろ3巻からは英文解説は付録形式になって巻末に折り込まれており、物語を読み終わってすぐにおやつが来るように変更された。おやつというだけあって本題から遠い話にも感じるのだが、これが案外美味しい話ばかりなのだ。
とにかく「飛ばして読む」「英語を楽しむ」ことに重点を置いていて、読む側に負担を書けないような配慮があちらこちらに感じられてうれしい。学校で学んだ英語につまづいた人、楽しめなくなった人、難しくてついていけなくなった人、諦めちゃった人、嫌いな人、でも英語が分かるようになりたいと思ってる人におすすめの本だ。
「ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本」を読んだ。そこには学校で教えられたのとは全く違う正しい英語の読み方が書かれていた。英文法を正しく理解するには、まず「読む」ことが大切であると。
第二章から第八章まで具体的な英語の読み方が書かれている。主役、脇役、矢印、付録、そして化粧品。独特の用語で英語の読み方を説明している。
基本形と呼ばれる英語の読み方を上記の文に当てはめると、The catが主役でEdが脇役、scratchedが矢印となる。このように英文を読むときはそれぞれの区切りを探して理解していくことになると教えている。
幸福なことに私はこの考えをすんなり取り入れることが出来た。そしてこの本に書かれていることで私に必要だったのはこれだけだった。たったこれだけのことで英文を読めるということに気づいたのである。
学校教育を含めると30年以上。英語が苦手、というよりはよくわからないモノだったものが一冊でがらりと変わる。もちろん英語能力としてはまだ駆け出しなのだが、自分の足で歩きだせると気づいたことが何よりも大きい。「まだ英文なんて読めるわけがない」そういう思い込みを打ち砕く力を与えてくれた。
私に英文を読む能力が無かったわけではなかったのだ。ただその能力の使い方を知らなかっただけ。そこへこの本が導いてくれた。
第十一章にある2つの物語も楽しく読むことが出来た。もう読むだけの能力は持っていた。分からない単語や並び方もあるけれど、文意は読み取ることが出来る。子供のころ背伸びして大人向けの本を読もうとしたとき、少し分からない言葉を歯がゆく感じながら物語を楽しんでいたころに戻ったような。そんな感覚を思い出す。
学校英語が間違っていることを説く人は多い。しかし代わりに正しい方法を教えている人はほとんどいない。私にとってはこの本がそれを教えてくれた。著者の向山淳子氏、向山貴彦氏に感謝したい。見事なイラストでこの本を彩ったたかしまてつを氏に拍手。
読み進めていくとステップアップを焦らず本書をじっくり読み返すことを繰り返し推奨されるのだが、自分の力を試したくて仕方がない。しかしここはじっと我慢だろうか。悩みどころである。
その通りなんだよなあ。辛くて痛い。
悪人や犯罪者として生まれてくる子は一人もいないわけで、何かおかしいとしたらその子を囲む環境が与える影響がおかしいのだよ。でも法律には悪いことをした人を罰する文言はあっても、悪い影響を与えた環境を罰するものはない。だから環境は良くなっていかない面もあって、悪い環境から良い環境へと移ることは個人の責任とされている。
環境を整えるのは政治の役割。それを放棄して個人に押し付けるなんて納得いくはずもない。
さておいて日本ではまともな公教育は望めない。この劣悪な環境は政権交代以外に変える方法がない。根本からして間違っているからだ。教育とは児童自らもっと学びたいという意欲をかきたてる環境整備を行うことだが、義務教育では能動的に学ぶことを否定し上のものの意見を首肯するだけの機械になれと暗示している。
教育にはWell-beingを促進する環境が含まれていることが望ましい。参考:What Is Well-Being?
そして何より教育は無料でなければならない。制服や鉛筆や給食は国が提供すべきもの。児童と家族は教育を享受することに専念すればいい。教員が教育に専念するために医療専門家や特別支援教員、福祉専門家、学校心理士を学校に加え手厚い教育をサポートすべきだ。これらは決して贅沢なものではなく、教育環境を整えるために最低限必要なものだ。
まじか。避妊知識のアップデートが必要だな。
あなた方の家が火事のように行動してもらいたいのです。
「今こそ、私たちの家が火事のように行動しなければなりません」: 環境活動家グレタ・トゥーンベリ 欧州議会スピーチ(2019-4-16 / ストラスブール (フランス)) - YouTube
言いたいことはよくわかる。気候危機に対し今すぐ動いてほしいということだろう。しかし残念なことに取られる対応は経済対策ばかり。本当に経済と気候危機は両立しながら対応可能な問題なのだろうか。経済を捨てないと間に合わないのではないだろうか。ただ現実として経済教が浸透した世界では経済も救うとした方が行動が早くなる原理なのだろうな。
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